AIは感動しない
このところ、ChatGPT(対話型人工知能)が何かと話題になっています。先月21日には朝日新聞と毎日新聞でそれぞれの朝刊の1面に、「対話AI利用 大学模索」(朝日新聞)、「生成AI『ルビコン渡った』」(毎日新聞)といった大きな見出しを付けてこのChatGPTを記事にしていました。このようにChatGPTは毎日のようにいろいろなメディアで話題になり取り上げられています。
ChatGPTについては、質問やキーワードを入力するだけで自然な文章で回答してくれるため、これまで人が多くの時間を費やして行っていた定型的な業務においては作業効率の大幅な向上が期待できる一方で、大学などの教育現場では論文や課題レポート作成におけるChatGPTの使用ルールに頭を悩ませているようです。
私も試しにChatGPTに「学校のHPに掲載する『校長ブログ』を代わりに書いて。」とお願いしたところ、ものの数秒(!)で原稿用紙1枚半の文章が出来上がったのには驚きました。ただ、AIが書いたその文章を読んでみると、たしかに体裁はそれらしいものではありますが、しかし何度読んでもその文章からは伝わってくるものがありません。結局、AIは整った文章は書けるものの、そこには「伝えたいもの」や「伝えようとする熱意」は無いのだということに気づきました。
言葉というのは人類の持つ高度な伝達手段で、我々は言葉によって膨大な情報を相手に伝えています。けれどもその伝えようとする情報は、単なる客観的な事実や出来事だけではなく、それらに対する自分の思いや、さらにはその思いを相手にわかって欲しいという熱意もそこには込められているはずです。こうしたことから、私は「コミュニケーションの最大の目的は、感動を共有することである」と思っています。
また、感動というのはテクノロジーの発展とは無関係です。例えば将棋界では2017年に時の名人が将棋ソフトに敗れ、「AIが名人を超えた」ということが定説になりました。それでも将棋ブームが冷めるわけではなく、今では藤井聡太六冠の活躍が社会現象として大きな話題を呼んでいます。さらには、感動は技術的な巧拙とも無縁です。我々はメジャーリーグでの大谷翔平選手の活躍に胸を躍らされるとともに、少年野球に一生懸命取り組む我が子の姿に声援を送ります。
つまり、「感動する」というのは最も人間らしい行為の一つであり、決してAIには真似のできないことなのです。ChatGPTの書いた文章から思いも熱意も伝わってこなかったのは当然のことかもしれません。
学校において学力や知識を身に付けることは言うまでもなく重要です。そして、それに加えて「感動する心」を養うことも、学校の大切な役割です。人は感動することで「もっと知りたい」「自分もやってみたい」と思い、さらには「この気持ちをだれかに伝えたい」「感動を分かち合いたい」と願います。このように感動に支えられた学びこそが、本来の探究活動だと私たちは考えています。
GWが明けるとコロナが5類に移行し、学校生活もますます活性化します。それに伴い私たちはこれまで以上に生徒の皆さんに活躍の場を用意していくつもりです。そして、これからのTDUでの生活のなかで、私自身も生徒の皆さんといっしょにたくさんの感動を見つけていきたいと思っています。
通学路の躑躅(つつじ)の花が綺麗に咲く季節になりました。
ちなみに今回のブログを書き上げるのに、私は3日かかりました…。