「啐啄の機」 No.33(2024年3月1日)

2024.03.01

旅立ちの季節に ~ 『杜子春』に思う
 
芥川龍之介は明治25年(1892年)3月1日に生まれました。つまり今日は芥川の誕生日です。この年の干支は今年と同じ辰年で、一説には「辰年辰月辰日辰の刻生まれにちなんで龍之介と名付けられた」と言われています。(諸説有り)
 
芥川龍之介の作品は、令和の時代でも多くの読者に愛されています。その中でも大正9年(1920年)に発表された『杜子春』は、おそらくだれもが一度は読んだことのある、もっとも有名な作品の一つと言えるのではないでしょうか。
 
『杜子春』という物語は、ある春の夕暮れ時から始まります。
 
人間というものに愛想をつかした杜子春は、仙人になることを望んで無言の行に挑みます。数々の苦難が杜子春を襲い、そのことごとくに耐えた杜子春は仙人になるまであと一歩のところに迫りますが、最後の試練として、杜子春の前にみすぼらしい2頭の痩せ馬が引かれてきます。それは馬に姿を変えた彼の両親でした。そして、目の前で鬼たちに鞭打たれる両親の姿を見て、杜子春は思わず、「お母さん!」と叫びます…。
 
結局、杜子春は仙人になれませんでした。けれども杜子春は、仙人になる夢をあきらめる代わりに、とても大切なことに気づいたようです。
 
この物語の最後の場面で、鉄冠子(てっかんし:杜子春に試練を与えた仙人)からこれからの身の振り方を尋ねられた杜子春は、次のように答えました。
 
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」
 
人間に愛想をつかし、仙人になることを目指した杜子春でしたが、それでも彼は、最後には「人間らしい、正直な暮らし」がいかに大切であるのかに気づきました。このように、人はたとえ目指すものを手に入れることができなかったとしても、その過程で多くのことに気づき、学びを得ることができるのです。
 
「あきらめる」という言葉の語源は古語の「明(あき)らむ」で、その元来の意味は、「物事を見極め、その道理を明らかにする」というものです。ですから、その人が自分の進路を見極め、その結果として目指すべき目標を変えたとしても、それはその人が選んだ道であり、そのどれもが尊重すべき選択だといえるでしょう。この物語の中での杜子春も、自らの意思で「人間らしい、正直な暮らし」を選んだのです。
 
春は旅立ちの季節です。もうすぐ本校からも多くの卒業生がそれぞれの目標に向かって巣立っていきます。たとえどんな道を歩んでも、それは皆さんが自分自身で選んだ道です。本校で学んだことを胸に抱き、どうかこれからも人間らしく生きていってください。私たちは、卒業生の皆さん一人ひとりを、心から誇りに思います。